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インド大統領の祝辞に感銘
田中正明
「日本の京都、京都に骨を埋めたい思いである」と、こよなく京都を愛されたパール博士の遺言が生かされて、京都東山の京都霊山護国神社境内の「昭和の杜」の一角に、扇形の本磨きの花崗岩にかこまれたセラミックの見事なラダ・ビノード・パール博士の顕彰碑が建立されました。まことに喜びにたえません。
ご承知の通り、大東亜戦争で日本が敗戦したため、占領軍司令官マッカーサーの命により極東国際軍事裁判(俗称東京裁判)が開かれ、日本の指導者25人が断罪(絞首刑7、無期金庫6、有期禁固)されました。その11ヵ国の戦勝国の判事のうちただ一人、インド代表判事のパール博士は、この裁判は国際法にも違反した法に基づかない事後法による裁判である。すなわち日本を侵略国家、犯罪国であると宣伝するための政治的復讐裁判に過ぎないとして、全員無罪を判決して、法の真理を守りました。 博士はその後三たび来日、全国を遊説されて「自虐・卑屈の精神から脱却して、誇りある日本に回帰せよ」を励まされました。 平成9年(1997年)はインド独立50周年にあたります。この独立50周年を記念して、インドから博士の長男プロサント・クマール・パール氏夫妻をお招きして、11月20日、 パール博士顕彰碑の除幕・竣工式が挙行されました。 この日の午前10時、京都護国神社木村宮司を斎主に、工事が無事完了した御報告と感謝の儀式がおこなわれました。 瀬島龍三委員長以下役員一同、及び工事設計・施工・デザイン・石材等の関係者が、神前に整列して修祓をうけ、木村宮司の祝詞奏上ののち、各代表が玉串を奉奠しました。 この後瀬島委員長より下記の工事関係者に対して感謝状が授与されました。
除幕式には太陽燐たり
顕彰碑は、明治維新の志士たちのねむる霊山と、大東亜戦争で東南アジア各地で戦死された英霊鎮魂の碑の林立する「昭和の杜」の中間に、幅約8メートルの扇型の花崗岩の屏にかこまれ、その中央に屹立する、高さ2.4メートル、幅1.2メートルの大理石製の碑に、わが国が世界に誇るセラミック製で、博士の威厳と慈愛に満ちたお顔と半身像の写真がはめ込まれた碑です。 ここからは京都市が一望のもとに俯瞰される絶好の場所です。 扇形の壁面右側には、博士の判決文最後の次のような予言的名句が肉筆で刻まれています。 『時が熱狂と偏見をやわらげたあかつきには、また理性が虚偽からその仮面を剥ぎとったあかつきは、その時こそ、正義の女神は、その秤の平衡を保ちながら、過去の賞罰の多くにその所を変えることを要求するであろう。』 左側にはその英文と博士のサインが刻まれています。 また碑の裏面には博士の略歴が日・英両文で刻まれています。 さらに幅36センチのステンレスの帯には建碑の趣旨と建立年月日、パール博士顕彰碑建立委員の名、および協賛された法人団体・個人名が刻まれています。 除幕式は11時からはじまりました。通路が狭いので主なる来賓・役員と長男夫妻のみがならび、司会は野地二見副委員長兼事務総長がおこないました。 石屏の右上にはインドの国旗が、左上には日の丸の旗が大きく掲げられています。 全国から参加した協賛者約220名は、真下の霊山歴史館の前庭に、この式典を見上げる形で位置しました。 全員起立。君が代とインド国歌の楽の音がりょうりょうと響きわたった。と、その時です、奇跡的に雲が切れて、太陽が燐然として輝きました。太陽の祝福を受けたのです。 プロサント夫妻と瀬島委員長の3人が、純白の手袋をはめて、3本の紐を引きました。パール博士の肖像が太陽の光を浴びて出現しました。万雷の拍手は霊山をゆるがして鳴りやみませんでした。 この席で瀬島委員長は、パール博士の法の真理と歴史的事実に基づく不朽の名判決を讃えると同時に、この裁判により日本国民が自国に対する誇りを失い、自虐的・退廃的になることを危惧されて、度々日本を訪れて私どもを激励して下さった。それにもかかわらず、戦後半世紀を経た今日、日本国民がいまだに祖国の文化と歴史に対する真の誇りを恢復することができずにいるのは甚だ残念である、と嘆かれました。そしてこのパール博士の遺徳を後世に伝えるため、地元参議院議員の林田様と霊山護国神社木村宮司様の御高志によいり、このまたとない霊地に建碑の場所をご提供いただいたこと、さらに全国の百数十の法人団体と、約2000名の有志から熱誠溢れる協賛のご芳志を頂いたことに対する謝礼を述べられました。 このあとプロサント氏は「博士がその美しさゆえに愛してやまなかった京都にすばらしい碑をつくっていただいた」と謝意を表すると同時に、「ここを訪れた人々は、博士の正義をつらぬく真っすぐな道を、だれにも左右されない、完全な独立人であった博士の精神を思い起こしてほしい」と語りました。 この除幕式のあと、席を霊山歴史館内に移して竣工式典とレセプションを開きました。
竣工式典・宴会
さしもの広い会場も、約250名の来賓と協賛者で満員の盛況です。正面舞台には パール碑と同じセラミックの博士像の複製がおかれていました。式典はその博士の碑の前で、廣瀬事務局長司会のもとにおこなわれました。 まずインド大統領K.R.ナラヤナン閣下のメッセージが朗読されました。その内容は次の通りです。 『博士の有名な反対判決は、勝者側の偏狭なナショナリズムと政治的復讐を退け、それよりも平和そして国家間の和解と親善のために努力することを説いた、感銘深い呼びかけでありました。博士はまた、そのように行動されたことにより、インドと日本の友好と理解のシンボルとなったのであります。 私はインド独立五十周年を記念する年に、わが国の高名な国際法学者 ラダ・ビノード・パール博士の碑が京都において除幕されたことを知り、よろこびに耐えません。・・・・・』 建碑の意義を的確に表現された実に内容あるメッセージで、一同感動いたしました。 ついでこの日、東京から出向された外務省政務次官の高村正彦氏が、日本政府を代表して祝辞を述べられました。更に続いて駐日インド大使シッダールタ・シング閣下が長文の祝詞をスピーチされました。この中で大使は、『パール博士の反対判決は、第二次世界大戦後のインドと日本の親善関係を発展させる重要な要素となりました』と述べ、インドは日本に対して、戦時賠償の破棄、単独の平和条約の締結、広島・長崎の原爆投下に対する非難と抗議等をあげ、日本はインドに対して、インドにおける経済政策の支援と日本の投資など具体例をあげ、本日のパール碑の竣工はこの友好関係を進展し、不動のものとする誠にふさわしい行事であると述べられました。 さらに続いてプロサント・パール氏のスピーチ、京都府知事荒巻禎一氏、京都市長 桝本頼兼氏の祝辞があり、木村幹彦宮司からパール夫人に対し、京都の名産嵯峨錦のハンドバッグのプレゼントが、満場の拍手のうちに行われました。 最後に地元選出の林田悠紀夫参議院議員(前法務大臣)はスピーチの後乾杯の音頭をとり、一同祝杯を高くあげて、宴会に入りました。 なごやかな団欒の中にあって、友人同士さそいあい、舞台に飾られたパール博士の映像をバックに、写真を撮りあっている姿がみられました。閉会午後一時。 なお事務局から次のような報告が発表されました。 「御奉纂と賜りました方々全員の御芳名は、法人・団体につきましては、五十音順、個人につきましては御献金の順に『巻子壹巻に謹記』して、パール博士顕彰碑基石の下に永久保存させて戴きましたのでご報告もうしあげます。」 さらにパール碑参観者はオート・サウンド・システムにより、碑の前に立つとその瞬間、素晴らしい男性の美声で、パール博士顕彰碑建立の趣旨が流れるしくみになっています。どうぞ多くの皆様方の御来観をご期待申しあげます。 雲切れて日印の国歌りょうりょうと
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